現地レポ
三重・加佐登神社と能褒野神社へ行ってきました|ヤマトタケル終焉の地とされる二つの古墳
加佐登神社(鈴鹿市)と能褒野神社(亀山市)は、どちらもヤマトタケル終焉の地「能褒野」とされる場所です。加佐登神社の近くには白鳥塚古墳、能褒野神社のそばには明治12年に能褒野墓と定められた王塚古墳があります。二つの社は車で13分ほどです。
目次(10項目)
ヤマトタケルのお墓は、宮内庁が管理しているものだけで3か所あります。三重県亀山市、奈良県御所市、大阪府羽曳野市。日本書紀に、亡くなったヤマトタケルが白鳥になって飛び立ち、降りた所ごとに陵が作られた、と書かれているからです。
その最初の1か所、ヤマトタケルが息を引き取った「能褒野(のぼの)」とされる場所に、いまも社が二つあります。鈴鹿市の加佐登神社(かさどじんじゃ)と、亀山市の能褒野神社(のぼのじんじゃ)です。どちらにも、すぐそばに古墳があります。
10月13日、二つを続けてお参りしてきました。
加佐登神社へ

加佐登神社は、椿大神社からは車で約20分の距離です(地図で測った目安)。駐車場は無料で、私が停めた社務所に近い区画は18台ほどでした。池の横にも駐車場の表示があります。公式サイトは、無料駐車場50台と案内しています。車を降りてすぐの所に、「神宮遙拝所」の石碑が立っていました。

添えられた掲示によると、伊勢の神宮を遠くから拝むための場所で、令和元年(2019)10月に天皇陛下の御即位を記念して設けられたそうです。江戸の昔、お伊勢参りに行けない人たちのために各所に遙拝所が設けられた、とも書かれていました。

境内の由来記の掲示板には、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と天照大御神、ほかに明治41年に合祀した14神とあります。公式サイトは、日本武尊を主祭神として、ほかに16柱の神さまを一緒に祀っていると書いています。

由来記は、古事記・日本書紀によると、と前置きして、尊の最期をこう書いています。
伊吹山の戦いで傷つき病におかされ動かぬ身体を引きずってこの能褒野に辿りつき遥かに大和を望んで短い生涯を終えたと伝えられています。
続けて、この社の始まりが書かれていました。本殿の北にある白鳥塚が古くから尊の御陵とされてきたこと。そのそばに、尊が死の間際まで持っていた笠と杖を御神体として祀ったのが加佐登神社の始まりで、明治より前は「御笠殿社(みかさどのしゃ)」と呼ばれていたこと。
諸病平癒(しょびょうへいゆ)の霊験あらたかで、人々の篤い信仰を受けてきたこと。 ※世の中のあらゆる病気や、もろもろの病が残らず治癒することを願う言葉
大祭は、尊の命日と伝わる4月8日です。
加佐登の「かさ」は、笠の「かさ」なのだと、ここで知りました。

御朱印は、直書きと書き置き

社務所は、9時から16時なら開いているとのことでした。ただ、日によって違うそうです。
御朱印は、直書きと書き置きの両方がありました。掲示によると、通常の御朱印は初穂料300円です。
書き置きの「秋の特別御朱印」は2種類で、初穂料500円。10月8日から数量限定で頒布されています。ピンクの地にコスモスとヤマトタケルを描いたものと、黄色の地に紅葉と女性の姿を金色で描いたものです。私がいただいたのは、コスモスの方です。
10月8日は、由来記にある例祭の日です。また、毎月8日の月次祭には、昔の御朱印を復刻したもの(初穂料300円)もあると、掲示と公式サイトに書かれていました。


社務所の窓口には、参拝者用トイレの改修工事への奉賛をお願いする貼り紙がありました。トイレは工事中です。
社務所の方からは、古事記ではヤマトタケル終焉の地はこちらとして扱われている、と伺いました。古事記の本文に出てくる地名は「能煩野(のぼの)」で、白鳥塚をその御陵と考えたのは、江戸時代の本居宣長の『古事記伝』です。このことは、あとの節でもう少し書きます。
白鳥塚古墳へ、歩いて5分

白鳥塚へは、社務所の反対側へ歩いて5分ほどです。公式サイトは、加佐登神社の北西約200メートルと書いています。案内の札が出ているので迷いません。


途中から、車は入れません。

古墳の前に、鈴鹿市の説明板が立っています。

この古墳は古くから日本武尊(倭建命)の墓との言い伝えがあり、尊が葬られた後に白鳥となり飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれている。
説明板によると、白鳥塚古墳はかつて県内最大の円墳とされていました。しかし、近年の発掘調査で、東側に造出しを持つ「帆立貝式の前方後円墳」だと分かりました。
墳丘の長さは78メートル。その型式から5世紀前半に築かれたとみられ、鈴鹿川流域を支配した首長の墓と考えられています。
加佐登神社の由来記にも、平成17年の調査で帆立貝式の前方後円墳と分かったことを伝える貼り紙が追加されていました。


古墳のまわりには小道があって、ぐるりと一周できます。落ち葉の積もった斜面の上が墳丘です。

平田篤胤の「御笠殿社由来記」
社務所で、刷り物を一つ受け取りました。開くと、白鳥塚を詠んだ歌が一首と、「御笠殿社由来記」という古い文章が載っています。

天の下覆へる神しみかさ殿 さして仰かぬ人やなからむ
由来記の文末には「文政十二年といふ年の九月」とあり、平田篤胤の名があります。公式サイトは、江戸後期の国学者・平田篤胤の著と紹介しています。

読んでいくと、御笠社という名から、人の体にできる腫物や瘡(かさ)の病を治してくださると言い伝えられ、近くの国はもちろん、遠い国々からも人がお参りに来ていた、と書かれていました。笠を「はれ物」のことに言いなして祈る、とあります。笠と瘡は、どちらも「かさ」と読みます。
篤胤は、文政6年(1823)8月に自分も御陵と御笠社に参った、とも書いています。
能褒野神社へ
加佐登神社から能褒野神社までは、車で約13分です。所在地は亀山市田村町1409。

参道の入口に「車の進入禁止」の掲示があり、その手前に停めます。駐車場は5台ほどです。


鳥居の脇に、由緒の掲示板がありました。

御祭神は倭建命(日本武尊)。ほかに建貝児王、弟橘比売命と30柱。沿革の最初の行は、こうです。
宮内省、同地の丁字塚古墳(一名、王塚)を日本書紀が記す日本武尊能褒野陵(『延喜式』諸陵寮能褒野墓)と決定。
明治12年(1879)のことです。そのあと、明治16年に神宮祭主の久邇宮朝彦親王が「能褒野神社」の社号を選び、明治28年に神社の創立が終わって御鎮座祭が行われた、と続きます。加佐登神社が江戸時代から御笠殿社として続いてきたのに対して、こちらは明治に御陵が決まったあとに建てられた社です。

社務所はありますが、この日は誰もいませんでした。常駐の方はいないようで、御朱印もないと思われます。

拝殿の西の参道には「連理の榊」の説明板があります。二株の榊が、高さ3メートル余りの所で互いに手を差しのべた形で連なっている、と書かれていました。板は古く、かすれて読めない所もあります。
能褒野墓へ
能褒野墓へは、本殿を出て鳥居を左へ。すぐ右へ曲がって降りると、数分で着きます。

途中の林の中に「能褒野墓 飛地に号」という宮内庁の標柱がありました。御陵の本体から離れた所にある、宮内庁の管理地です。

王塚古墳の看板が出ていて、その先に石段があります。


石段の上に、宮内庁の制札が立っています。「景行天皇皇子日本武尊 能褒野墓」。その下に、みだりに域内に立ち入らぬこと、魚鳥等を取らぬこと、竹木等を切らぬこと。

柵の奥に、鳥居が見えました。亀山市教育委員会の冊子は、この古墳を「市内で一番大きい古墳です」と紹介しています。
二つの「能褒野」
古事記と日本書紀が書いているのは「能煩野」「能褒野」という地名だけで、それがいまのどこなのかは書いていません。國學院大學の古事記の地名データベースは、能煩野を「三重県鈴鹿市の西方から亀山市にかけての台地を指す地名と考えられている」と説明しています。
日本書紀は、尊を伊勢国の能褒野陵に葬ると、尊は白鳥になって陵から出て、大和の琴弾原に、さらに河内の旧市邑に降りたので、そのそれぞれに陵を作り、三つの陵を白鳥陵と呼んだ、と書きます。古事記のほうは、白鳥ではなく「八尋白智鳥(やひろしろちどり)」となって飛び、河内国の志幾に留まったので、そこに白鳥御陵を作った、と書いています。冒頭の3か所は、この話につながっています。
では、能褒野の陵はどこなのか。江戸時代、本居宣長は『古事記伝』で、高宮村(いまの鈴鹿市)の白鳥塚を「まづは此ならむ」と書きました。平田篤胤も、白鳥塚を尊の墓としています。
鈴鹿市考古博物館の資料によると、明治9年には当時の教部省も白鳥塚を尊の墓と定めましたが、明治12年(1879)10月に宮内省がこれを改め、丁子塚(由緒板では「丁字塚」。いまの亀山市の能褒野王塚古墳)を定めました。境内の由緒板も、この決定をした役所を宮内省と書いています。
いま宮内庁が「能褒野墓」として管理しているのは、能褒野神社のそばの王塚古墳です。國學院大學の地名データベースは、古墳の名前や田村町の「能褒野」という呼び名は、この治定にならったものだと書いたうえで、こう続けています。
ただし、墓の比定地は近世以来今日までなお諸説ある。
加佐登神社は「ヤマトタケル終焉の地」を掲げ、公式サイトにも「能褒野の場所については諸説ありますが」と書いています。白鳥塚古墳と王塚古墳は、直線でおよそ4.4キロ離れています(地図で測った値)。
電車とバスで回るなら
- 加佐登神社: JR関西本線の加佐登駅から歩いて約20分(公式サイト)。鈴鹿市のコミュニティバス C-BUS「椿・平田線」の「加佐登神社」バス停から歩いて5分です
- 椿大神社と加佐登神社: 同じ C-BUS 椿・平田線の「椿大神社」と「加佐登神社」のバス停がつながっていて、時刻表ではおおむね1時間に1本、片道40分足らずです(長沢で時間を合わせる便があります)
- 能褒野神社: 加佐登駅から JR で1駅の井田川駅が最寄りです。井田川駅から能褒野神社までは約2.6キロで、歩いて35分ほど(地図で測った目安)
- 時刻は変わることがあります。出かける前に JR 東海と鈴鹿市の時刻表で確かめてください
訪ねる時のポイント
- 加佐登神社: 鈴鹿市加佐登町2010番地。駐車場は無料。社務所に近い区画は18台ほどで、池の横にも駐車場の表示があります(公式サイトは50台)。社務所は9時から16時なら開いているとのこと(日によって違う)。御朱印は初穂料300円、秋の特別御朱印は2種(書き置き・初穂料500円・10月8日から数量限定)。トイレは改修工事中
- 白鳥塚古墳: 加佐登神社の社務所の反対側へ歩いて5分ほど。途中から車は入れません。古墳のまわりを一周できます
- 能褒野神社: 亀山市田村町1409。駐車場は5台ほど。社務所はありますが、常駐の方はいないようで、御朱印もないと思われます。
- 能褒野墓: 本殿を出て鳥居を左、すぐ右へ曲がって降りて数分
- 椿大神社から加佐登神社までは車で約20分の距離(地図で測った目安)。加佐登神社から能褒野神社までは車で約13分
- 加佐登神社の刷り物の「交通のご案内」は、国道一号線から車で5分、東名阪の鈴鹿インターから車で10分
車で加佐登神社→能褒野神社→椿大神社を回るなら約18kmです。

帰り道に
白鳥塚の上も、能褒野墓の柵の奥も、木が茂っていて、中の様子は見えませんでした。
古事記の本文が書いているのは「能煩野」という地名だけです。そのあとの千年以上のあいだに、白鳥塚を御陵と考えた人がいて、明治に王塚を御陵と定めた役所があり、それぞれの古墳のそばに社があります。私が見てきたのは、その二つです。
ヤマトタケル終焉の地とされる、2つの神社。地理的に近い距離にありますし、この地に足を運んだ際には、是非立ち寄ってヤマトタケルに想いを馳せ、参拝してみてください。
境内の場所とデータは椿大神社・加佐登神社・能褒野神社のページにまとめています。この日の回り方は巡り方のページにあります。
全国の神社・お寺などを地図で探せます。→ 福跡マップで見てみる
この場所を含む巡り方
- 加佐登神社から能褒野神社へ2026年10月13日・2か所の1・2番目
加佐登神社の周りには、鈴鹿市の福が3件あります。
鈴鹿市の福 3件をひらく →参考・出典
22件出典に基づいて掲載しています
- kasado-jinja.com
- kasado-jinja.com
- kasado-jinja.com
- kasado-jinja.com
- kasado-jinja.com
- city.suzuka.lg.jp
- kojiki.kokugakuin.ac.jp
- kojiki.kokugakuin.ac.jp
- kojiki.kokugakuin.ac.jp
- shugiin.go.jp
- city.kameyama.mie.jp
- city.kameyama.mie.jp
- city.suzuka.lg.jp
- 現地説明板「加佐登神社由来記」(加佐登神社境内・2026-10-13 撮影確認)
- 現地説明板「神宮遙拝所」(加佐登神社社務所・令和元年十月・2026-10-13 撮影確認)
- 現地説明板「白鳥塚古墳」(三重県指定史跡・鈴鹿市・平成21年3月・2026-10-13 撮影確認)
- 現地掲示「御朱印」「秋の特別御朱印」(加佐登神社社務所・2026-10-13 撮影確認)
- 加佐登神社 社頭頒布の刷り物「御笠殿社由来記」(平田篤胤・文政十二年)「白鳥山の御陵にまうてよみて奉れるうた」(長門介平景樹)・交通のご案内(2026-10-13 現地で受領)
- 現地説明板「能褒野神社」(御祭神・祭礼日・沿革/2026-10-13 撮影確認)
- 現地説明板「連理の榊」(能褒野神社境内・2026-10-13 撮影確認)
- 現地制札「景行天皇皇子日本武尊 能褒野墓」(宮内庁・2026-10-13 撮影確認)
- 加佐登神社 社務所での聞き取り(2026-10-13)
この記事について
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