能褒野神社(能褒野墓)|どんな福が宿る場所か
三重県亀山市田村町に鎮座する神社です。境内の掲示によると、御祭神は倭建命(日本武尊)・建貝児王・弟橘比売命ほか三十柱です。沿革は、明治12年に宮内省が同地の丁字塚古墳(一名、王塚)を日本書紀が記す日本武尊の能褒野陵(『延喜式』諸陵寮の能褒野墓)と決定したことから始まり、明治16年に神宮祭主の久邇宮朝彦親王が社号を選び、明治28年に神社の創立が終わって御鎮座祭が行われたと記しています。
神社のそばの能褒野墓(能褒野王塚古墳)には、宮内庁の制札「景行天皇皇子日本武尊 能褒野墓」が立っています。政府の答弁書は、この墓の治定を1879年10月31日としています。國學院大學の地名データベースは、古墳名や町名の「能褒野」という呼び名はこの治定にならったもので、墓の比定地は近世以来今日までなお諸説あると記しています。拝殿の西の参道には「連理の榊」の説明板があり、二株の榊が高さ三メートル余りの所で互いの小枝を差しのべた形で連なっていると記しています。

近くの福
- 加佐登神社(白鳥塚古墳)(除の福・約4.3km)
- 椿大神社(猿田彦大本宮・伊勢国一の宮)(除の福・約9.0km)
- 都波岐奈加等神社(つばきなかとじんじゃ)(除の福・約10.9km)
- 保曽井神社(曽井城の氏神)(除の福・約13.9km)
時のながれ
- 明治12年(1879) — 境内の掲示によると、宮内省が同地の丁字塚古墳(一名、王塚)を、日本書紀が記す日本武尊の能褒野陵と決定しました。
- 明治16年(1883) — 神宮祭主の久邇宮朝彦親王が「能褒野神社」の社号を選びました。
- 明治28年(1895) — 神社の創立事業が完了し、御鎮座祭が行われました。
- 明治41年(1908) — 延喜式内社の縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社をはじめ、村内の四十余社が合祀されました。
- 大正14年(1925) — 縣社に昇格しました。
- 昭和22年(1947) — 宗教法人能褒野神社に改組されました。
このページで確かめたこと
現地確認
2026年10月13日に参拝しました。参道の手前に「車の進入禁止」の掲示があり、駐車場は5台ほどです。社務所はありますが常駐の方はおらず、御朱印はありません。能褒野墓へは、本殿を出て鳥居を左へ、すぐ右へ曲がって降りると数分で、途中に王塚古墳の看板と宮内庁の飛地の標柱があります。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この福を掘り下げた記事
この場所を含む巡り方
- 加佐登神社から能褒野神社へ2026年10月13日・2か所の2番目
参考・出典
8件出典に基づいて掲載しています
- 能裒野墓(陵墓データベース)
國學院大學 古事記学センター - 能煩野(地名データベース)
國學院大學 古事記学センター - 衆議院議員提出 質問に対する答弁書(内閣衆質一七五第三八号)
衆議院 - 広報かめやま 令和2年12月1日号
亀山市 - 亀山にまつわる人・もの・こと
亀山市教育委員会 - 現地説明板「能褒野神社」(御祭神・祭礼日・沿革)
能褒野神社(2026-10-13 撮影確認) - 現地説明板「連理の榊」
能褒野神社(2026-10-13 撮影確認) - 現地制札「景行天皇皇子日本武尊 能褒野墓」
宮内庁(2026-10-13 撮影確認)
この場所について
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