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参拝の作法とマナー

御朱印は「集めるもの」ではなかった — 納経の受取から始まった話

2026-07-29 | 執筆・編集:福跡マップ編集部

御朱印は、はじめから「集めるもの」ではありませんでした。

もとは写経をお寺に納めたときに受け取る、いわば受取書です。中山寺(西国三十三所の札所)の公式サイトは、御朱印の別名である「御納経(ごのうきょう)」について、写経を納めた証として発行された受領書に由来する、とはっきり書いています。

この一点を知っているだけで、御朱印帳を前にしたときの迷いはずいぶん減ります。

大阪天満宮の御朱印です。右に「奉拝」、中央に「大阪天満宮」と墨書きされ、朱色の梅の紋と角印が重ねて押されています。左に令和八年八月六日の日付があります。
大阪天満宮の御朱印です。右に「奉拝」、中央に「大阪天満宮」と墨書きされ、朱色の梅の紋と角印が重ねて押されています。左に令和八年八月六日の日付があります。

初めての御朱印Q&A — 先に結論だけ

Q. お寺でも御朱印を受けられますか?

はい。御朱印の由来は、写経を寺社へ納めた証にあります。神社だけのものではなく、中山寺のように「御納経」と案内するお寺もあります。授与の有無や受付方法は寺社ごとに異なるため、公式案内や現地の掲示を確認してください。

Q. お参りと御朱印は、どちらが先ですか?

基本はお参りが先、御朱印が後です。御朱印が参拝の証だからです。ただし、先に御朱印帳を預けてからお参りする運用もあります。その場合は、その寺社の案内に従ってください。

Q. 書き置きでも意味は変わりませんか?

変わりません。書き置きは、あらかじめ紙に書かれた御朱印を受ける形です。帳面へ直接書いていただく場合と同じく、参拝の記録として受け取るものです。

高倉稲荷神社の御朱印です。中央に「高倉稲荷神社」と墨書きされ、朱の角印が重ねて押されています。右上に「髙津宮摂社」の朱印、右に「奉拝」、左に令和八年七月三十日の日付があります。
高倉稲荷神社の御朱印です。中央に「高倉稲荷神社」と墨書きされ、朱の角印が重ねて押されています。右上に「髙津宮摂社」の朱印、右に「奉拝」、左に令和八年七月三十日の日付があります。

起源は、奈良・平安の「納経受取の書付」

神社本庁の公式サイトによれば、御朱印の起源は奈良・平安時代にさかのぼります。神社仏閣に書写した経典を奉納した際、受け取っていた「納経受取の書付」がそれにあたるとされています。

例として挙げられているのが「平家納経」です。平清盛が厳島神社に納めた、あの経典です。

つまり最初にあったのは、写経という行為のほうでした。紙に経を書き写し、それを納める。その事実を証明するために、寺社の側が書付を渡す。御朱印はその副産物だったわけです。

「参拝だけの人にも書きましょう」で、今の形になった

やがてこの慣行は変わっていきます。神社本庁は、納経をせず参拝のみをした場合にも証明を書いてもらう形へと変化していった、と説明しています。

写経を持たずに来た人にも書く。そこで御朱印は、写経の受取から「参拝した証」へと役割を移しました。

さらに明治以降、鉄道網の整備で寺社巡礼が盛んになります。人が動けば、証も増える。そして——ここが個人的にいちばん意外だったのですが——「御朱印」という呼び名が使われるようになったのは、昭和10年頃からだと神社本庁は記しています。

千年以上の歴史を持つ習わしなのに、その名前は百年経っていない。長く「納経」と呼ばれていたものが、比較的最近になって今の名前を得た、ということになります。

安居神社の御朱印です。中央に「安居神社」と墨書きされ、背後に梅の花をかたどった朱印が重なっています。左上に六文銭と「天神山」の朱印、左に「真田幸村公戦死の地」の枠印。右に「奉拝」と令和八年七月三十日の日付があります。
安居神社の御朱印です。中央に「安居神社」と墨書きされ、背後に梅の花をかたどった朱印が重なっています。左上に六文銭と「天神山」の朱印、左に「真田幸村公戦死の地」の枠印。右に「奉拝」と令和八年七月三十日の日付があります。

広まったのは、鉄道が通ってから

もうひとつ、神社本庁の説明で見逃せない一文があります。明治以降の鉄道網の整備により、寺社巡礼が盛んになった——という部分です。

考えてみれば当たり前の話ですが、巡礼は移動です。三十三の札所を回るというのは、徒歩の時代には人生の一大事でした。日数も、路銀も、体力も要る。誰にでもできることではありません。

そこに線路が敷かれた。日帰りで札所に行けるようになり、巡礼は限られた人のものから、多くの人が参加できるものへと変わっていきます。

御朱印が今のように親しまれているのは、信仰の変化だけが理由ではないわけです。線路が延びた分だけ、証を求める人が増えた。呼び名が「御朱印」に落ち着いたのが昭和10年頃だというのも、その流れの終着点にあたります。

西国三十三所では、今も「納経帳」と呼ぶ

その名残は、いまも巡礼の世界に残っています。

西国三十三所では、御朱印を「納経印」、御朱印帳を「納経帳」と呼びます。言葉が古い形のまま生き残っている。中山寺が御朱印を「御納経」と併記しているのも同じ理由です。

札所を回る人にとって、あれは記念スタンプではなく納経の記録です。呼び名が変わらなかったぶん、意味も薄まらずに残ったのだと思います。

堀川戎神社の御朱印です。「堀川戎神社」の墨書きに、宝船をかたどった朱印と角印が重ねて押されています。右上に「奉拝」、左に令和八年八月六日の日付があります。
堀川戎神社の御朱印です。「堀川戎神社」の墨書きに、宝船をかたどった朱印と角印が重ねて押されています。右上に「奉拝」、左に令和八年八月六日の日付があります。

順番は、参拝が先

ここまで来ると、作法の話はほとんど自明になります。

御朱印は参拝した証です。だから参拝が先で、御朱印は後。授与所に先に並んでから拝殿へ、という順番は、証を先に受け取ってから証明すべき行為をすることになります。

もっとも、これは大きな寺社で「先に御朱印帳を預けて、参拝している間に書いていただく」という運用がとられている場合は別です。その社寺の案内に従うのがいちばん確実で、実際そうした掲示が出ていることも珍しくありません。

中山寺の公式サイトも、参拝の際は信仰の心を忘れずに、と書き添えています。順番の正しさそのものより、そちらが本体なのだろうと思います。

書き置きでも、価値は変わらない

近年は、あらかじめ紙に書かれたものを授与する「書き置き」も増えました。直接書いていただけないと残念、という声も聞きます。

ただ、由来をたどれば御朱印は納経の受取です。受取である以上、その場で筆を執るかどうかは本質ではありません。行事の日や参拝者の多い時期、あるいは書き手の都合で書き置きになることは普通にあります。

私は、そこで粘らないほうが結果的に気持ちよく持ち帰れると思っています。

露天神社(お初天神)の夏詣の御朱印です。「露天神社」の墨書きの周りに、花火・浴衣姿の二人・猫をかたどった色とりどりの印が押され、右上に「夏詣」、下に「To you Tenjin Shrine」とあります。右に令和八年八月六日の日付があります。
露天神社(お初天神)の夏詣の御朱印です。「露天神社」の墨書きの周りに、花火・浴衣姿の二人・猫をかたどった色とりどりの印が押され、右上に「夏詣」、下に「To you Tenjin Shrine」とあります。右に令和八年八月六日の日付があります。

一ページ目を、どこにするか

御朱印帳を求めたとき、書いていただく前に「最初のページでよろしいですか」と尋ねられることがあります。

大神神社で御朱印帳を求めたときも、まさにそう聞かれました。理由を伺うと、一ページ目はお伊勢さんのために空けておきたいという方が結構いらっしゃる、とのことでした。詳しくは大神神社と狭井神社を歩いてきましたに書いています。

そういう習わしがある、というだけの話で、決まりではありません。空けておく人もいるし、その場でお願いする人もいる。

御朱印はもともと、納めた経の受取でした。何を納めたか、どこで手を合わせたか。帳面に残るのはその記録です。順番も、書き置きも、一ページ目も、そこから考えれば自分で決められます。

難波大社 生國魂神社の御朱印です。紙面いっぱいの朱印で、右に「難波大社」、左に「生國魂神社」、中央に「丙午」の文字と駆ける馬、その下に「歳」とあります。右上の「奉拝」と左の令和八年七月三十日の日付が墨書きです。
難波大社 生國魂神社の御朱印です。紙面いっぱいの朱印で、右に「難波大社」、左に「生國魂神社」、中央に「丙午」の文字と駆ける馬、その下に「歳」とあります。右上の「奉拝」と左の令和八年七月三十日の日付が墨書きです。

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参考・出典

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